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富士山と富士講

 あれからも同じ道を通るがその後富士は見ない。やはりあの富士は歳末の澄んだ空気が見せてくれたものだったのだろう。しかしまあとにかく大きな富士だった。目を疑うとはあのことだ。よいものを見た。

 ふと気付いたのだが。澄んだ空気さえあればあれほど巨大な富士が東京から拝めるのであれば…。近代工業以前である江戸時代、江戸に暮らす人々は、みな毎日富士を見ていたということになるのではないだろうか。
 この思いつきは私にとってちょっとした衝撃であった。私は常々「兄弟姉妹の構成」「成長時に過ごした土地」が性格に及ぼす影響というものに興味を持ってきた。前者はこの稿では()くとして、問題は後者だ。簡単に言えば「平野で育った人」と「盆地で育った人」、「海辺で育った人」と「山間(やまあい)で育った人」には性格相違が歴然とでるように思う、ということ。山梨県で数日過ごした時、毎朝起きて窓を見るたびそこに巨大に屹立する富士を見た。最初は「立派だな。いいな」と思ったのだが、何日目かには圧迫感を感じるようになった。このように絶対的なものが常に身近に在る毎日を暮らす少年は、だだっ広い平原で暮らす人とはやはり全く違う性格になるのではないかと感じたのだ。勿論遺伝的要素等、他に大事な要素は沢山ある。それらとともに一要素としてこの要素はあるのではないか。

 江戸時代、富士講という一種の宗教があった。町人層を中心に広がったこの宗教は富士山を御神体とする神道であった。毎月積み立てを行っては年に一度富士登山をした。更に富豪層になると庭に富士を模した築山(つきやま)を作り、詣でた。富士まで行く事が出来ない人のためにと、神社の境内に富士塚と呼ばれるものを築いたりもした。この富士講という宗教のユニークな在り方が私は好きだ。自身富士に二度登山してみて、登山時に感じる清々しさが宗教に繋がるものであるようにも思った。山頂に立派な神社があることも知った。しかし今までどうしても腑に落ちなかった一点、それが「何故この宗教は江戸期に発達したのか」であった。原始以来富士はずっと在ったのに、何故江戸期に富士講が出現したのか
 これに私は今まで三つの答を考えてきた。「平和がもたらした町人層の勃興(ぼっこう)」、「江戸期に何度か起きた富士の大噴火」、「戦乱の無い時代の山伏」である。
 一。長い平和とともに勃興した町人層は、生活に余裕がでるとともに新奇なもの歌舞(かぶ)いたものに興味を持つようになった。そういう層は旧来からある仏教や神道では飽き足らず、新興宗教に興味を持つようになるのではないか。
 二。この時期何度も起きた富士の大噴火は周辺地域に膨大な火山灰を降らせた。かの山の恐ろしさが身に沁み、畏れ敬う気持ちを生んだのではないか。
 三。山岳信仰の中心で在り続けた山伏(熊野山の護符を売る等)は、同時に戦乱期には他国の情報を齎す(もたらす)重宝な存在として武家に遇された。しかし平和呆けが始まった江戸中期には彼らの在り方は大きく変わったのではないか。情報屋としての存在価値も薄れたであろうし、新興層である町人には旧来の古めかしい山伏商売は成り立たなかったのではないか。彼らは次第に市民社会に埋没していったのではないだろうか。段々に数は減っていったのではないかな。しかしその中で新しい宗教を考えついたものがいたとしたら…。これまでの山岳信仰を土台に、日本一の山富士山を御神体とする新しい宗教を、という思いつきが或る山伏に宿ったのが始まりだったのかもしれない。
 そして今回、第四の理由を思いついた。実に単純な話だけれど、「毎日富士を見ていたから」ではないかと。江戸幕府開府以来爆発的に増えた人口、他国から移り住んできた人の中には初めて富士を見た人も多かったのではないだろうか。毎日朝起きるとそこに在る富士、巨大で静かな富士、時に恐ろしい火と煙を吐き出す富士。それを大勢の人が見たから自然発生的に宗教が生まれたのではないか。勿論色んな要素が絡み合ってのことだろうが、「江戸から毎日見える富士」という発見(私にとって)から来るこの第四の単純な理由が実は最も有力だったりして。前段で述べた「環境と性格の相関」を信じる私にはそう思える。

 (2001.1.18)

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